クール・オン・フルール

奥田 勝 氏

18のとき、中華のコックになろうと思って中華料理店で2年働きました。本当は映画監督になりたかった。でも、食っていかれないなあって感じたときに、料理の道もいいと思ったんですよ。っていうかね、『料理は女性のもの』というイメージがある中、男が包丁握っているなんてなんかカッコイイじゃないですか。とはいいながらも、やっぱり映画のことが忘れられなくて、どこか中途半端でしたね。これじゃいけない、やるならしっかりやろうと20才になって調理師学校に行ったんです。

その頃、中華よりもパンとお菓子に興味を持ちはじめたので、その授業があるという調理学校に行ったんです。実際は授業ではほとんどパンやお菓子に触れさせてもらえなかったんですけどね。でも、卒業してホテルのパン部門に就職しました。3ヵ月パンを学ぶつもりが3年に及び、その後もいくつかのホテルでパンやお菓子を作りました。働いたホテルの中には没個性的な職場だなあと感じるところもありましたね。「オレ、こんなところで腐ってる場合じゃないよな」「ここで働くみんなと一緒になってはいけない」なんて思ったこともありましたよ。でもホテルはおおむね仕事が早く終わるのが利点。「オレがやりたいのはフランス菓子だ」とわかってからは、仕事後の自分の時間にフランス語の勉強やフランス菓子の勉強をしていました。

やっと本格的なフランス菓子の店で働けたのが27歳。『ダロワイヨジャパン』です。ここには今まで自分が遠い世界と思っていた人々がいて、初めて見る仕事の仕方があって、非日常のフランス菓子が日常に入り込んでいました。みんなに比べて10年近く遅いスタートで、先輩もみんな年下。「コイツ、本気だな」というのをわかってもらうため、朝も早く行って、まずはゴミ捨てからやりました。嫌がられても煙たがられても、上の人にまとわりついていましたよ。激しく叱られることもあったけど、それも愛情の裏返しと思って頑張りましたね。叱ってもらった先輩シェフは今でも師匠です。尊敬しているし、またガンと叱ってもらいたいなんて思うこともあります。自分にとって鬼神というべき存在なんです。
ここで働くうちに、フランスに行きたい気持ちも高まりました。2年働いた29才のとき渡仏、1年あちらで修業しました。フランス人の感性って、本当にたいしたものだと思う。料理のアイディアや寝ないで働くパワーなど「こいつらすげえな」と感じる瞬間は何度となくありましたよ。

フランスから帰って最初はガチガチに尖ったフランス菓子を作っていたんですけど、少しずつ丸くなってきたと自分でも思います。日本の素材を使おうと、日本のお客さんのニーズに合わせたお菓子を作ろうと、自分から出てくるものはフランス菓子。だから、肩肘はることないんですよね。

コルドンブルーで講師をはじめた頃から、自分の店を持つことを現実的に考えるようになりました。お客様とはフィフティフィフティの関係でありたい。喜んでもらえるお菓子を作ってお金を頂く。だからこそ裏切らないお菓子を作りたいと思います。まだオープンしたばかりですが、5年後、若いコックを入れてフランスの料理も食べられるビストロができたらいいですね。でも、ほんとの野望はそれから。55才からは映画学校に通って、60前に1本映画を作りたい。実は、映画監督の夢もまだ捨てていないんですよ。
取材日 2000年10月


奥田さんの秘密