ラ・バンボッシュ

間中 道比呂 氏

大阪の調理学校を出た後、飯倉の「キャンティ」へ。その後浅草「みかわや」、青山「ルコント」を経て渡仏。「ジャン・ミエ」ほか数店で修行。帰国し、三田「トランプス」(現在は閉店)で約1年働いた後、14年前錦糸町に店を出す。4年前に少し場所をずらした現在の地に。昨年からは錦糸町そごうにも店を出している。


家業を継ぎたくない。その意志から間中氏のシェフとしての人生が始まった。志したフランス料理を学んでいく中でみたケーキに魅了され、パティシエへの道を進んでいくこととなる。ご自身のお店を構えて15年目。多くの人に感謝しながらここまできたというその道のりは山あり谷あり。充実の笑顔を見せてくださる「ラ・バンボッシュ」間中氏の素顔に迫ってみた。

調理学校を出た後、六本木で浅草で青山で。お菓子作りの修行をしながらフランス菓子に傾倒していくうちに、どうしてもフランスで学びたい、という氏の思いはつのっていった。つのってつのっていくうちに、ついに思いは爆発。あてもないまま、単独フランスに渡ってしまったのである。
 
渡仏した氏は早速翌日からパリ中のお菓子屋さんを歩き回る。門をたたいて片言のフランス語で「働きたい」と言っては追い返され、履歴書を持っていっては断られる日々が続く。貯金も底をつくかと心配されたある日、当時、フランスの洋菓子協会の長をしていた人物に出会う。そんな地位のある方とはつゆも知らない間中氏は、とにかくお菓子屋さんで働きたいという意志を伝えた。するとその方は間中氏のひたむきな姿勢に心を揺さぶられたのか、その場で受話器を取って、とある店に連絡をし、話をまとめているくれたではないか。結果、そのお店が翌日から間中氏の職場となったのである。
その後は夢であった「ジャン・ミエ」で働く機会も得ることになる。無給であったため、お金を使い果たすと他のお菓子屋で働きお金をため、また「ジャン・ミエ」に戻って働く。そんなことを繰り返していくうちにパティシエとしての腕を磨き、お菓子に対する妥協しない姿勢を身につけていったのである。
 
フランスでの修行や作るお菓子にとまどうことはなかった。渡仏前に働いていた「ルコント」とほぼ同じシステムであったからだ。しかし、フランスから戻ってみると、当時すでに生クリームの使い分けを始めていたパリの洋菓子界と、まだ重いクリームだけを使っていた日本の洋菓子界の差は大きく感じた。言葉ばかりが先走って伝わっている印象も受けた。しかし、もうフランスに戻ることなく、帰国して約2年後には地元にご自身のお店を構えることとなったのである。
 
間中氏の挑戦は「軽さを意識しながらどこまでコクが出せるか」だ。素材の中では生クリームとバターに一番神経をつかい、ブレンドしながら軽さとコクを追求する。
きちんとしたお菓子屋さんならではのお菓子以外の商品にも取り組みたいとは、フランスで色々なお店を見て生まれてきた気持ちである。ブリオッシュやクロワッサン、キッシュからニョッキまで。今はまだ「え?お菓子屋さんがそんなものまで手を出すなんておかしい」と受け入れられないかもしれない。特に店のある下町はそういう地域といえる。しかし、お菓子屋でこその、パン屋やレストランの範囲でない美味しいものがあるのである。お客さんに理解してもらう導入の期間を持ちながら、いずれは・・・。

「みんなホントによく働いてくれるし、後輩の指導もしてくれる。今一番の自慢」と真っ正面から10人のスタッフをほめる間中氏。どんなに忙しくても絶対に納得のいく商品しかショーケースには並べないという姿勢を崩さず、いつまでも美味しいケーキを私たちに提供し続け、新たなお菓子屋さん像も示してくれることだろう。
取材日 1998年



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