ラフィーユ 

室松 孝育

本当にたまたまなんです、お菓子屋になったのは。だから最初は、特別お菓子に魅力を感じるということもありませんでした。
入ったのはいわゆる日本の洋菓子をやっている会社でしたが、あるとき会社自体が「きちんとしたフランス菓子をやろう」と方針転換。自分の上司などがフランスに勉強しに行ったんです。彼らが帰って来て持ちかえってきたもの、それは自分が今まで会社でやってきたものとまるで違いましたね。持ち帰られた技術、それでできたお菓子を見て、はじめてこの世界の魅力を感じました。

今までは、基本も分からずに、ただ教えられることをうのみにしていました。でも、ちゃんとパートの配合の基本があって、それを理解すればいくらでも応用がきくこともわかった。お菓子の可能性は一気に膨らみました。過去のレシピはいらなくなり、全て捨てたと同時に、「ほんとうにお菓子屋になろう、フランス菓子をめざそう」と決意したのです。

その後、オープンしたばかりの『粉と卵』でシェフパティシエに。7年いるうち、2年をフランスで過ごしました。向こうでは、みんなが意外と自由にお菓子を作っていることに驚きました。実は、行くまでの自分はフランス菓子にとらわれがあったんです。「フランス菓子はこうあるべき」みたいな。でも南仏やボルドーという町で働き、「ああ、フランス菓子ってもっと自然に作っていいんだ」と肩の力が抜けました。自分が考えていたように、こうじゃなきゃいけないというのものはないんですね。レシピがあっても、それはあくまで数字。それ以上の味にするのは作り手の技量と考え方だと気がついたんです。
本物を知った強さでしょうか、戻ってからは自信を持ってお菓子を作れるようになりました。もう、とらわれることはありませんでしたね。

戻ったころから独立を意識しはじめました。お金をためるために、韓国のお菓子会社にいたこともあるんですよ。2年間という契約で、研究開発をしながらお菓子を教えたりしていました。韓国の人々は、お祝いのときにデコレーションケーキは買っても、プティフールを買う習慣がまったくなかった。これを受入れてもらうのには苦労しましたね。

それから、手に入らない材料も多かった。オレンジピール一つ作るにも、まずオレンジの皮を米軍のキャンプからもらわなくてはならない。普通にオレンジを買ったらびっくりするほど高いですから。フルーツの缶詰もなかったから、すべてが手作りでしたよ。

この場所に店を出したのは、地元だから。本当はもっと小さな小さな店で、自分1人でできればいいなと思っていたのですが、思うような物件がなくて。今でも一番売れるのはシュークリームやモンブラン、ショートケーキです。あまり特徴づけをしない商品構成ですが、中に何品か思い入れのあるものを作っています。例えばたっぷりアニスを効かせたお菓子とか。売れないかも・・、とは分かっていても作ってみたくて。
フランスには2,3年に一度行くようにしています。ピエールエルメみたいに、スーパースターが出ると一気にお菓子が変わりますよね。5,6年に1人くらい出ている気がするのですが、このところちょっとスター不在かな。フランスのお菓子が変わると、当然日本のお菓子も影響を受ける。そういう意味では、フランスでスターが出るまでもうしばらく、大きな変化はお菓子界にはないのではないでしょうか。

取材日 2001年11月














ラフィーユ
東京都江戸川区船掘4−10−23
TEL:03-3688-5772

室松さんの秘密