花小金井丸十製パン

山口義元 氏


天然酵母パンの草分け的存在だった山口義元さんが、3月26日にお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
今回は、昨年11月に取材をさせていただいた時の記事を掲載させていただきます。
山口さん、本当にありがとうございました。

昭和9年生まれです。今67才ですが、中学を出てから52年間、朝の3時から働いているので、もう90才になる分くらい働いている気分です。
長野で育ちました。6人兄弟の次男で、農家も継がず、山奥で炭焼き職人になるか東京に出るかどちらかの選択があり、東京に行くことにしました。学校の先生のお姉さんが池袋でパン屋をやっているということと、ドイツ人にもらった美味しかったパンの思い出というのがあってね、そこに決めたんです。

故郷を離れて着いた池袋は、大騒ぎしている街でした。住み込みで働いていたのですが、うるさいし空気は汚いし、1ヵ月でホームシックになり、帰りたいと家に手紙を出したら「頑張れるだけ頑張りなさい」と返事が来たんです。それで仕方なく頑張りましたが、もう1人一緒に入った友達は長野に帰ってしまったんですよ。ますます毎日寂しくなりました。
唯一、向いに古本屋があり、そこに通う早稲田の学生に勉強を教わったり、本を借りたりするのがとても楽しかった。でも、修業先の主人に「勉強なんてするな、パンを覚えろ」と怒られ、なかなか思うようにはいきませんでしたが。

パン屋といっても終戦直後で小麦は配給だったので、店に並べる商品はないんです。ではどうしていたかというと、客が持ってくる小麦でパンを作って手間賃をもらっていたのです。白系ロシア人や、江戸川乱歩なんかも店に来ました。机一つと量り一つ、あとは塩とコークスを燃やす石窯があるだけの店で、昼はどこでも2,3時間停電になるんですけどね、石窯だから平気でした。客が持ってくる粉は、国産小麦の中に芋やトウモロコシの粉が入っていました。これにイーストを入れて焼くのです。イーストではあるけれど、国産小麦に防腐剤など入れないというこの時の製法は、今になって役に立っている訳なんですよ。
ここに4年いたあとは、経堂で9年。この頃は粉も自由化し、お砂糖もあったのでクッキーやあんぱんも作っていました。俳優や作家、役人などが住む高級住宅地に売り歩きました。

そして昭和37年に花小金井に開店。もう少し都心に同じ広さの物件があって、そっちで開いたほうが売れると思ったのだけれど、長野が懐かしかったのか緑が多いほうを選びました。今、店の半分が賃貸、半分が後に買い足した部分です。しばらくしたらほかの場所にとも思っていたのですが、買っちゃったので、もうほかの場所には移れません。パンは、開店当初は売れませんで、やはり売り歩きました。でも、オリンピック頃から売れるようになりましたね。

昭和46年、スイスのリッチモンドで少し勉強しました。ヨーロッパでは、どこの国でも自国の粉を使っているんですよね。だから日本の小麦を使って、日本のパンを作ろうと思い、帰って来ました。まもなく、星野さんという、ホシノ酵母の初代社長さんと出会い一緒に酵母を開発したり広めたりし、今日まで健康なパンを作ってきました。"鍋で焼くパン"っていって、日本全国講習をして歩いたんですよ。浅草公会堂でやったこともあります。

そうそう、ホシノ酵母を使いはじめた当時、白いふわふわのパンしか町にはありませんから、全粒粉のパンを見せると「貧乏人のパン」といって誰も買ってくれなかったですね。「体にいいし、噛むと美味しい」って言ってもとっついてもらえなかったですね。
現在これだけ世の中に天然酵母のパンが増えたのは、嬉しいです。同じ天然酵母のパンといっても、味に幅もでているようですね。うちなんかのは、昔と同じ味で、特別今風にアレンジも加えていません。袋の裏には、もうずうっと昔から原材料を書いています。これからも、子供たち、その子供たちと、代々健康でいられるような食生活の手伝いをできたらいいと思っています。

取材日 2001年11月










花小金井丸十製パン
東京都小平市花小金井南町2-17-6
0424-62-2214


山口さんの秘密