リスドオル・ミツ

廣瀬 満雄 氏

22になった時、アメリカの大学に2年行きました。忘れもしない、1ドルが297円の時代ですよ。仕送りだけでは生活も苦しく、パン屋でバイトをはじめました。時給は最低賃金の2ドル50セント。労働ビザを持っている訳でもないですから、その賃金に文句はなかったんですが、1週間働いたら突然上司によびだされまして。「なかなか良く働いているから、時給を上げてあげよう」と言うわけです。なんと、いきなり倍の5ドルになったんですね。当時の生活は、午前中働き午後車で大学に行って友達のノートを写す。ちょっと授業に出てまたパン屋に戻るというのがパターン。時給5ドルのおかげでお金はあるし、優雅なものでしたよ。

日本に戻って、父親の会社に入りました。おやじの会社はパン屋です。おやじとは常に衝突していました。私はアメリカで大量生産のパンを見ていた。カスタードクリームだって、粉に水を混ぜたら出来ちゃうんですよ。そういう効率のいい生産を父親に説いたら、心からあきれたという顔で「おまえはアメリカで学歴をつけたかもしれないが、馬鹿になって帰ってきた」と言うわけです。ことある毎にこんな調子でしたから、うまくやっていかれるはずもありません。結局28才のときに「おまえなんか、出て行け!」「ああ、出て行くよ!」と会社をやめました。

その後2年間、製パン機械メーカーに勤めました。中国や韓国といったアジアの国に、大量生産できるような機械を売りまくりました。安い、やわらかい、甘いというだけでパンが飛ぶように売れてしまうんですね。この時、添加物についてはものすごく詳しくなりました。今、自分の店では無添加のパンを焼いているので意外だと思われるかもしれませんが、実は自分ほど添加物に詳しい人間もいないと思っているんです。だからこそ、無添加パンの大切さも分かる。

その仕事をやめた後、30そこそこでパン屋の経営コンサルタントの仕事をはじめました。18年前から「パンは無添加でなくてはならない」と説いたのです。しかし当時は反発が多く、「実力のない若いものがコンサルタントと称しパン屋をだましている」というような記事も書かれました。「だましている」というのには腹が立ったけど、「実力がない」とは、なるほどそうかもしれないなあなんて思ってしまいまして、それなら自分で無添加のパン屋を成功させようと思ったんです。それがこの店をはじめたきっかけともなっています。

「パン屋は、儲からなくてはならない」、これが私の考えです。パンを作るのは技術ですから、ちゃんと技術料だっていただかなくてはならない。安全な材料を求めるとある程度値段に跳ね返りますが、それでも、求めるお客様は必ずいます。そしてパン業界には、正論が正論として通る業界であって欲しいと思う。

3年前に、おやじが死にました。私にとって痛手だった。あんなにぶつかり合った仲ですが、結局おやじの言っていたことは、全て、正しかった。これはその後自分がパン屋をやって、息子を育てて思うことです。今、息子はドイツにいるんですが、電話で会話していると、あきれることだらけ。自分がアメリカから帰ってきた頃もおやじから見たらこんなだったんだろうなあ、とこの歳になって思います。
取材日 2001年3月


廣瀬さんの秘密