突然ですが、みなさんは鼻をつまみながらワインやコーヒー、ジュースなどを飲んだことがありますか? もし何かを飲みながらこれを読んでいたら、ちょっとやってみてください。さあ、どうですか? おいしいと感じましたか? 舌には甘い、しょっぱい、苦い、酸っぱい、そして旨いなどのセンサーがあるはずなのに、何を飲んでいるのだかわからなかったでしょう。実は味覚は舌だけでなく鼻で感じるところが大きいのです。風邪や花粉症の人が、味がわからないというのは、鼻が詰まって香りを感じとれないからなのです。

焼きたてのパンの香りに誘われて、ついお店に入ってしまったとか、ケーキ屋の扉を開けたとたんにバニラの甘い香りで満たされ幸せを感じるなど、香りはおいしい食べ物を発見する大事な手がかりにもなりますね。定期的に「香り」について研究をしているパナデリアですが、この度、調香師の村井千尋さんを迎えて「香り」についての基本的レクチャーを行い、「ハイアットリージェンシー東京」の佐藤浩一シェフに作っていただくデセールで、実際お菓子に香りがどのように表現されているのか考え、楽しむ会を、「ハイアットリージェンシー東京」のオールディダイニングである「カフェ」にて開催しました。


会場となったのは「カフェ」のちょっと個室のようになったスペース。香りを感じるための最適な空間となりました。

今回のテーマは「バニラ」。お菓子には欠かせない最もポピュラーな香りですが、ひと口にバニラといっても、歴史、産地と種類による香りの特徴、香りの抽出方法と形態(天然と合成等)、使われる場面・・・と、語るべきことはたくさん。

そんな香料の魅力をアカデミックに語っていただいたのが村井調香師。村井さんは、空間放香専門家として、高級ホテルや航空会社などの依頼で香りをデザインされたり、コンサルテーションを行ったりする一方、香りの効果等の研究を行いながら、小売向け商品へ使用する香料の開発のお仕事もされている香りのエキスパート。嗅ぎ分けられる香りは数百種類に及ぶとか! それ以上に香りの種類が存在することにも驚きです。


プライベートでは大のスイーツ好きな村井さん。日夜味と香りの表現について研究されています。

まずは基本的な香料についての説明。そして、天然香料の原料であるバニラのさやを、産地別に嗅ぎ、印象の違いを確認。最もポピュラーなマダガスカルやタヒチのほか、バニラ原産地のメキシコ産やパプアニューギニア産の4種類が用意されました。


試験管のような容器に入ったバニラのさやをひとりひとり回して香りを確認。

バニラは産地によって発酵、熟成方法が違うせいもあり、太さや芳香成分に違いがあります。


次に、試香紙に何種類かの香気成分をつけて鼻に近づけてみます。クローブ、オイゲノール、バニリン、エチルバニリン、ヘリオトロピン、クマリン、アニスオイル・・・これら全てがバニラの香りを構成する成分。あっ、昔の歯医者さんの治療薬の匂い(クローブ)とか、桜餅の香り(クマリン)とか。全く香りというのは、過去の記憶を呼び覚ましてくれるものです。そうそう、バニラ香料は嗅覚の検査に使われるのだとか。

バニラに含まれる香りをいくつか試香紙に移してチェック。

まとめて嗅ぐと立体的なバニラの香りに!

ヘリオトロピンは、ベビーパウダーのような香り。主にタヒチ系バニラに含まれる。


さあ、脳をフル稼働させた後はお待ちかねのデザート! バニラのスイーツコースのはじまりです。佐藤シェフが使用したバニラはマダガスカル産とタヒチ産。このふたつ、同じバニラと名がつくのに、見た目の太さや値段ばかりか、香りの特徴が大きく違います。やさしい甘さの広がるマダガスカル、華やかでスパイシーなタヒチ〜佐藤シェフはどのように使い分け、デザートコースに仕立てたのでしょうか?

この日、見事なバニラのスイーツコースを作り上げてくれた佐藤浩一シェフ。美しい彩りのデザートに参加者全員うっとり・・・



一皿目は「苺のキャラメリゼ バニラアイスを添えて」

イチゴのコンフィは、透けるほど薄くしたパート・ド・フリュイの下に。

佐藤シェフ・・・イチゴを砂糖、バター、バニラでキャラメリゼし、最後にさっと洋酒でフランベにしました。バニラアイスはタヒチのものを使用し、キャラメリゼされたフルーツにも合わせられるように、時間をかけて風味を移しました。ただの添え物としてではなく、デザートとしてのバニラアイスになっています。また、ラベンダーとマダガスカルバニラの泡を置くことで、このデザートの印象をやさしく感じさせてくれます。

とにかく美しい! パステルトーンのやさしい色彩ですが、バニラアイスの華やかでパンチのあるタヒチバニラと、イチゴの甘酸っぱさをひきたてる甘いマダガスカルバニラのコントラスト、そこにラベンダーはちみつのフローラルな香りが、ふたつのバニラの橋渡しとなって変化にとんだおいしさに。パート・ド・フリュイを壊すパリっとした音や、バニラアイスに敷かれたクランブルの食感も楽しい。



二皿目は「リンゴのコンポート マスカルポーネの温かいスープ」

斜めに傾いたグラスのデザインも魅力。スペキュロスの蓋で香りを閉じ込めて登場。

グラスの下の敷きこんだフレッシュミントの香りが、まったりしたスープに爽やかさを演出。

佐藤シェフ・・・軽く炊いたリンゴのコンポートを、タヒチバニラとマスカルポーネのスープに仕立てました。スパイスとしてのバニラの味わいを楽しんでいただければと思い、あえて強くスパイスを感じるサブレを添えさせていただいております。濃厚なマスカルポーネと、リンゴの舌触りに、鮮明なスパイスが口いっぱいに香ります。

同じ香気成分オイゲノールを持つシナモンやクローブと、タヒチバニラのスパイシー感を合わせることで、りんごの甘さや酸味と一体感が生まれます。まったりしたマスカルポーネもひきしまり、食べ終わったあとのグラスに顔を近づけると、スープの温かさで揮発したバニラの香りにうっとり。ずっとグラスを下げないで! と思ったほどです。


ここで一度お口直し・・・「洋梨のグラニテ」

洋梨こそバニラが鉄板なのに、ソーテルヌワインのパイナップル感を合わせるところが憎い。パイナップルは前のリンゴを引き継ぎ、このあとの柑橘へとつなげる香りがあるから・・・と勝手に深読み!?

ソーテルヌワインを入れることで洋梨の高貴な味わいがより華やかなものに。グラニテなのにねっとり、そして余韻の長いこと!




三皿目は「ポン柑と日向夏の軽いソテー バニラのエスプーマとともに」

柑橘カラーと白の色彩。あれこれ色を加えず同色トーンでまとめるシェフのデザートは、食べ進むうちに様々な味覚のグラデーションが頭の中で描かれていく。

佐藤シェフ・・・ポン柑と日向夏を、身が破裂しないように、マダガスカルバニラの香りをつけながら軽くソテー&リキュールでフランベし、2種類のテクスチャーのバニラソースを添えました。上には、香りを煮出したクリームのエスプーマを、下にはカスタードソースをひきました。濃と軽が生み出すバニラの風味が心地よく広がり、柑橘の香りが、あとからさっぱりとさせ、また次のひと口へと進みます。

酸味をやわらげるために施した柑橘への火入れが独特の食感を生み、加熱で生じたイモ臭はマダガスカルバニラのマスキング効果で抑えられ、失われた香りはリキュールで補填。タヒチバニラのカスタードソースがこくとなめらかさを演出。トップ、ミドル、ベースと移り行く香りのグラデーション、これぞフルーツ&バニラの醍醐味といった一品でした。

村井さん曰く、マダガスカル(ブルボン種)は、甘すぎないフルーツと合うそうです。そう考えると、佐藤シェフの使い方はぴったりだったわけですね。シェフご本人に伺うと、キレのあるものにはマダガスカル、ただデメリットは甘ったるく感じるのだそう。だからクリームやショコラなど甘さが十分あるものにはピリッとスパイシーなタヒチを使われたのでしょうか。

最後にプティフール4種。左からボンボンショコラ、マカロン、シュークリーム、フィナンシェで、ショコラがタヒチバニラ使用の他は、マダガスカルバニラを使っているそうです。

小さいのに、どれも細部までいきわたる美味しさ。バニラの香りが身体全体に染み渡ります。

このように全てのお皿を味わってみると、職人として経験を積みながら得た佐藤シェフのバニラ使いのセンスが、香りの成分分析から見たバニラの効果的活用法としっかりリンクしていることに驚きました。マダガスカルとタヒチ、値段や希少価値、好みで選ぶだけでなく、それぞれの相性や活かし方を考えることが新たな味覚の発見につながりそうです。

佐藤シェフ(左)とスーシェフの仲村さん(中央)、村井調香師(右)

お忙しい中、すばらしいデザートを完成させてくれた佐藤シェフ。次への期待が高まります。次は? そう、ピエール・エルメ氏が、10年以上も前からお菓子に使っているあのかぐわしい香り・・・バラをテーマに「香りの会」を開催したいと思います。惜しくも今回参加できなかったみなさん、次回の募集を、お見逃しなく!



パナデリアトップに戻る