フレダーマウス 八木 淳司 氏 | ![]() |
とにかくお菓子が好きというそれだけで、最初はこの世界に入りました。その頃はまだ、お菓子はただ洋菓子とひとくくりにされていた時代で、スポンジに生クリームと苺が乗っていれば何でも売れるという感じでした。最初は何もわからず、とりあえずこの世界に入ったのですが、私自身がクラッシック音楽が好きで、どうしても、ウィーンフィルハーモニーを生で聞きたくて、それも、1度2度じゃなくて死ぬほど聞きたいというのがありまして。そこに、ウィーン菓子というのがあるというのを聞いて、これは、と研究しだしたんです。そうしたら充分に面白い、という感じで。だから最初からパリに行くことは考えていませんでした。頭にあったのはウィーンだけでしたね。![]() ウィーンではホテルで働いていたんですけれど、お菓子の奥深さに、自分の引き出しに入りきらないことがすごく多くて、カルチャーショックはすごくありましたね。オーストリアの人達は、自分達の文化であると、お菓子にとても誇りを持っています。言葉がわかるようになると、どんどんのめり込んでいきました。お菓子の単純な作り方だけじゃなくて、文化とか歴史が見えてくるとますます面白い。マイスターの試験を受けるようになるとますますそんなことが気になってきました。 ![]() 働いていたホテルのチーフが協力的だった。実技の前には、俺と同じようにやれば絶対受かる、って一緒に最初から最後までお菓子を作ってくれて。本当に嬉しかった。おかげで実技には自信がでて、落ちるなら面接かなあと思っていました。事実、ドイツ語での面接は、途中からパニックになって、質問の意味がわからなくなってしまったりしました。それでも、20人で受けて11人が合格、そのメンバーに入ることができました。合格したときは、もう、嬉し涙です。向こうにいって5年目くらいのころの話ですね。マイスターというのは、ただ、店をもつだけじゃあなくて、15から18の人たちに技術を伝えなくてはいけない。伝えなくちゃ意味がないですし、恩返しができないと思っていましたから、すぐに日本に帰りたいとは思いませんでした。実際、2人若い人をマイスターに合格させることができ、少しは恩返しができたかなと思っています。希望通り好きなクラシック三昧もできたし、本当に勉強になった8年でした。 ![]() 作っているお菓子の配合は、ウィーンで学んだまま。余り日本人に合うとか合わないとかは考えていないんです。旨いものは誰が食べても旨いと思っています。あとは好みで、全てのお菓子が全ての人に合うとは思っていませんが、買って帰った4つ5つの中で、1つ、気にいったものがあってくれればなぁと思っています。 取材日 2000年1月 |