手や口や舌で触れる“触覚”、舌で感じる“味覚”、パンをちぎったり、ワインをグラスに注いだりするときに感じる“聴覚”、焼き立てのパンの芳しい香りを感じる“嗅覚”、目でおいしさを感じる“視覚”の五感で楽しめる料理を、食材そのものの味の価値を高めて提供していくこと

・・世界最高と呼ばれる料理人、ジョエル・ロブションの料理哲学である。


2004年12月、今まで「タイユバン・ロブション」の名で親しまれてきたレストランとブティックは、「ラ ブティック ドゥ ジョエル・ロブション」 に名を改め生まれ変わった。 とはいえ、ロブションの哲学を受け継いでいることには変わりない。いや、むしろ“ジョエル・ロブション”の名を冠したことで、よりいっそう彼の持ち味が強くなったとも言える。

その料理哲学を踏襲し、パンを任されているのがシェフ ブーランジェを務める山口哲也さんだ。「タイユバン・ロブション」の、シンプルで味わい深いバゲットのおいしさに惹かれて入社し、作り続けて9年目になる。ジョエル・ロブションの求めるパンの姿について、誰よりも良く知る人物と言えるだろう。




「“1つのレストランに1つのパン屋”というのがロブション氏の考えなんですよ。ですから、セントラルキッチンでまとめてパンを作り、それぞれの店に運ぶというのはNG。それから、冷凍も絶対だめですね。その点は非常に徹底しています」

おいしさを追求する、それはもちろんだが、「ラ ブティック ドゥ ジョエル・ロブション」が他のパン屋と決定的に違うのは、常にパンが料理とリンクしているということだろう。

「ジョエル・ロブション氏が、メインダイニングのシェフに全権を委ねているので、自分の作るパンも必ずシェフに確認をもらっています。どんなパンを作るかを考えるのは自分ですが、新しいパンやアイデアに関しては、料理のシェフに相談することもありますよ」



山口さんの作り出すパンの中には、料理を引き立てるものだけでなく、料理により近い感覚のものも多い。ロブション氏が来日した際には、氏と直接相談しながら、ガラディナーのアミューズブーシュとして2種類のブリオッシュを考え出したという。

「最近注目しているのは、百合根です。甘さと食感が面白いですよね。フォカッチャ生地に、根セロリと黒トリュフを乗せたものもあるんですよ」

ブティックのラインナップに目を向けると、ハーブやサフランやアンチョビなど、洗練された素材を合わせたパンが並んでいる。上質な食材やスパイス類をサラリと使ったパンは、すでに料理の域にある。そのインスピレーションは、やはり料理から受けることが多く、時間のあるときには気になるレストランを訪れることも多いという。



山口さんは、リニューアル後、恵比寿のほかに六本木ヒルズの店も任されるようになった。2店舗のラインナップは、客層や立地の違いから、半分は違ったラインナップにしているそうだ。

「最初は同一化しようと考えていたんです。でも、店の名前も違うし、ニーズも違う。それだったら、個性を出した方が良いということになったんです。恵比寿は、ハード系など食事パンの需要が高いですが、六本木は観光客やビジネスマン、OLが多いためか、惣菜系のパンやヴィエノワズリーが人気ですね。2店舗同時に見なくてはいけないので、準備をしたり、スタッフに教えることが難しいのは事実です。それに、前よりもっと自分の時間がなくなりました(笑)」



リニューアル前から、時間がないと嘆いていた山口さん。だが、肉体的には疲れていても、パン作りに対する意欲は衰えない。

「店が変わる際に、少し時間があったので食材の食べ比べをしたんです。バターや牛乳、生クリームをあらゆるメーカーから取り寄せて試食をしました。かなり違いがありましたね。実はクロワッサンのバターは、オーム乳業のものに変えたんですよ。ミルキーでコクのある味わいが、自分のイメージに合っていたので。それから、キッシュなど一部の商品に使う生クリームも変えています」

ふと、クロワッサンの味が脳裏によみがえる。ザクッとした食感のあとに、力強いコクとミルキーさが訪れる。バターの風味が強いのに、なぜか後味はサラッと軽い。



忙しいとは言いながらも、山口さんはチャンスを逃さず、着実にステップアップしていく。

「実は2ヶ月間ほど、ラスベガスに行かせてもらったんですよ。向こうのホテルの中に、ロブション氏の店があり、パリと日本から手伝いに行ったんです。その名も“チーム・ロブション”(笑)」

世界各国のVIPが集まるラスベガス。そこで、日本、フランス、アメリカを代表するトップクラスの料理人やブーランジェたちで結成された“チーム・ロブション”が腕を振るう。そこには、最高と呼ぶにふさわしい料理が並んだことだろう。
だが、アメリカのパンというと、どうしてもハンバーガーやホットドックに使われるフカフカのバンズが思い浮かんでしまう。山口さんが得意とする風味豊かな小麦粉は手に入ったのだろうか。

「アメリカでは今“アルチザン・ブレッド”という職人のパンが流行っていて、結構おいしい粉が手に入るんです。ですから、粉の味わいの点では問題ありませんでした。ただ、日本とは粉と水が違うので、その点は苦労しましたね。吸水量がぜんぜん違うので、バゲットを作るつもりがリュスティックのようになってしまったりして。しかも、向こうはボリュームがすごいんですよ!日本ではたいてい一度に2〜3kgの生地を仕込んでいるのですが、アメリカでは100Kgの生地を巨大なミキサーで一度に仕込む。最初は、ミキサーが回らなくて参りましたよ(笑)」

精鋭たちが集い緊張感が高まる厨房では、いつものように作っているだけでは発見できない様々なものを経験するはずだ。きっと、大きなものを胸に帰国したに違いない。



そういった意味でも、山口さんは一般的なパン屋とは位置付けが少し異なる。日本のパンについて、どんな目でみているのだろうか。

「最近感じるのは、パン屋のラインナップが変わってきたなということ。僕が入った頃に比べると、旨みの強いハード系なんかもすごく増えてきましたよね。でも、パンを学ぶ人やパン屋は増えているのに、現場では人手が足りていない気がするんです。パン屋を目指す若い人にも、もっと粘り強く、観察力を持って頑張って欲しいと思います」

あんな風に格好良く、おいしいパンが作れたら・・・。
ブーランジェという職業が人気だからこそ、その現状と憧れのギャップに挫折する若者も多いと聞く。肉体的に重労働なことはもちろん、生き物であるパン生地を扱って美味しいパンを焼き上げるのはたやすいことではない。基本的な技術、センスに加え、経験という時間に裏打ちされた勘が必要になる。どんな人でも、4年や5年で一人前になれる仕事ではないのだろう。
厳しい言葉の裏に、山口さんのブーランジェという仕事に対する誇りと職人魂がのぞいた。


「これからは、ハード系にもっと力を入れていきたいですね。レストランのキッチンとも連動して、この店にしかできないオリジナリティの高いパン作りを目指したいと考えています。“わざわざ買いに来たい”と思ってもらえると嬉しいですね」



ジョエル・ロブション氏から“食”の洗礼を受けた山口さん。
「ラ ブティック ドゥ ジョエル・ロブション」の厨房では、今日も私たちの“五感”を震わせるパンが焼きあがっている。 (取材2006.2)


※前回のこだわり職人はこちらです








ラ ブティック ドゥ ジョエル・ロブション
住所 東京都目黒区三田1-13-1恵比寿ガーデンプレイス内 B1F
TEL03-5424-1345
営業時間9:30〜20:00
定休日無休
アクセスJR・東京メトロ恵比寿駅より徒歩約5分
URLwww.robuchon.jp