取材・文 佐々木 千恵美  




パナデリア主催「香りの会」は、香りの専門家によるレクチャーと「ハイアット リージェンシー 東京」のペストリー・ベーカー料理長・佐藤浩一氏による香りのスイーツコースを、同ホテルのオールデイダイニング「カフェ」にて開催しています。

2014年春、「バニラ」からスタートしたこの会も3年目。2回目の「バラ」までは素材そのものの香りを表現する形でしたが、その後は「スモーキー」、「リーフ」と、やや抽象的なテーマへと進んでいきました。そして今回のお題は「発酵」。

ん、それって最近流行りのテーマじゃない?

はい、まったくの偶然です。チョコレート界をはじめ、フードの世界は発酵食品を取り入れた品で賑わっていますよね。でもそれらとはちょっとアプローチの仕方が違うのです。

どういうことかというと、発酵食品を使わずに発酵の香りを表現したデザートを作っていただき、何の発酵の香りかを楽しみながらいただくということ。

つまり、お味噌を使ったチョコレートとか、日本酒を使ったケーキという、ダイレクトに発酵食品を使うのではなく、あえてそれらを使わずに作ったデザートから、発酵の香りを探るというのが狙い。これとあれを合わせてこう作ったらお味噌っぽい香りが出た! なんていう、いってみればもどき料理。いつものように、出来たてのスイーツを通して、作り手の表現を会場のみなさんとゆっくり分かち合い、共有出来たらと願って仕掛けを仕込んでいきました。


事前学習のため、今回も遠足に出かけました。昨年11月半ば、佐藤料理長、仲村シェフなどハイアットチームとパナデリアチームの総勢6名が向かった先は山梨県にあるワイナリー、酒蔵、味噌屋、パン屋の4か所。それぞれの蔵や工房で発酵の香りを体感し、お話しを伺って作品への創造力を高めていったのでした。


最初に訪ねたのは甲州市塩山にある「奥野田葡萄酒醸造」さん。こちらではワイナリーすぐそばのワイン用ぶどう畑と蔵を見学。できるだけ自然に近い農法で病気にならないぶどうを育てるために、数年前からITの技術を取り入れ栽培されています。発酵中、熟成中のオーク樽が並ぶ蔵に入れば湿った香り。ぷくぷくと酵母の動く音もしました。そうして出来たワインから放たれる香りは豊か。試飲した白ワインには柑橘類やハーブ、バニラなど、複雑な要素が詰まっていました。ミルズというぶどうから醸造した薄ピンクのワインからはバラやライチが香ってきましたよ。

天候の予測などにITを使うと作業のタイミングなどが組みやすく、そうすることで余計な防除をする必要もなくなり、自然に近い栽培でぶどうの木も人も健全に。

ワイン樽やボトルの並ぶ奥野田葡萄酒醸造の蔵。



お楽しみのワインテイスティング。中身のイメージを込めたラベルデザインが素敵。



2軒目はランチも兼ねて日本酒の蔵へ。山梨市の「養老酒造」さんが営む「酒蔵ごはん&カフェ 酒蔵櫂」で酒粕を使った鮭の粕漬けや粕汁、お酒のアイスなどがセットになった蔵元ごはんをいただき、酒粕、お酒に潜む香りを探求。その後は酒造現場の見学です。仕込みにはまだ早かったのですが、ちょうど麹を仕込むところで、お米を蒸すための水をたくさん沸かしていました。

蔵元ごはん。日本酒を仕込む際に出る酒粕を使った粕漬や野菜たっぷりの粕汁が美味しい。

運転手もOKなお酒のアイス。アルコールは飛ばしているのに香りはしっかり。

お米を蒸す窯も人が数人入れるくらい大きい。蒸しあがったお米に粉茶のような緑色の種菌を植え付け、米糀を作る。


次は味噌蔵。甲府で明治元年創業の「五味醤油」さん。醤油とつくけれど現在はお味噌の醸造を中心に行っている蔵です。訪ねたときは麦麹の仕込み真っただ中。山間部の多い山梨は、昔は稲作がさほどできずお米が貴重だったため、お味噌は麦の麹とお米の糀、両方を大豆とあわせ醸造する全国的にも珍しいつくり方。それが伝統の甲州味噌なのだそう。両方の麹を嗅いでみると、色も香りも違います。試食した甘酒はお米の甘さ、醤油麹はふくよかな香りと旨みが癖になる、繰り返し嗅いでしまう、燻したような懐かしさがありました。

蒸しあがった麦麹用の大麦で麹作りをはじめたところ。

木桶に石で重しをした昔ながらの作りをする五味醤油さんの味噌蔵。

お店では米糀、麦麹の両方を展示販売し、甘酒や醤油麹などお味噌以外の活用法のしおりも制作している。

試食に出していただいた麦麹の醤油麹。これがなかなか癖になる味。自家製にして、香りの会本番のデザートにも使われた。


最後に伺ったのは甲府のパン屋さん「ヴァルト」。森と共生するドイツのパン製法の考えを取り入れ、日本の粉やライ麦粉から起こしたサワー種、富士さくらを種にしたオリジナルの酵母を使ってパンを焼いています。ライ麦粉と水を混ぜただけのちょっと穀物臭い香りが、素材や空中にいる天然の酵母の働きで、時間とともに香りがバナナやメロン、セメダインを連想させる香りに変化していく様は本当にミラクル。酵母の吐息か排泄物なのか、焼きあがったパンの香りが素材を超えて豊かなのも、発酵という過程を経ているからなのですね。

山梨県産のライ麦。

富士さくらの花から培養したという酵母。

ライ麦も加えたシュトレン作りの最中。溶かしバターに焼き上がりを浸して熟成させると保存性と風味が良くなるとヴァルトの渡辺さん。確かに熟成した酵母とバターの香りはなんとも芳醇。



楽しかった遠足から5カ月、発酵の構想も十分熟成された4月24日。香りの会本番の日がやってきました。


「今回発酵の香りを表現するにあたって、4つの発酵食品を主題にコース仕立てにしました。甘酒、パン、味噌、ワインとそれぞれのイメージをお皿にし、最後にプティフールをお出しします。」と佐藤料理長。私たちが遠足で感じた各蔵での香りを、会場のみなさんと分かち合うひととき、さあ、スタートです。


まずは頭がクリアなうちに香りのお勉強をしましょう。今回は、コーケンフード&フレーバー株式会社の研究員 堀田和裕氏がレクチャー。発酵食品に由来する香りを、いくつかのサンプル(試香紙)を嗅ぎながら確認していきました。

コーケンフード&フレーバー株式会社 代表取締役の中島愼弥氏。


醤油の製造工程を例にすると、醤油麹からは1−オクテン−3オールという、きのこやマツタケのような香り成分と、フェニルアセトアルデヒドというはちみつやバラのような甘い香り成分があり、その後発生する酵母の働きで生じる香り成分HEMFからは、みたらし団子を連想させる甘いカラメルのような香りがしました。この時点で醤油の主な香りができるのですね。大豆と麹カビと小麦、塩(あとは水くらいか)、別々だった味と香りが発酵の過程でどんどん変化していくさまは化学的に解明されてきた現代でも神秘的。

研究員の堀田氏が発酵の香りについて解説。

試香紙で発酵由来のフェニルアセトアルデヒドの香りを確認。


それからカカオ豆はロースト前と後では、減少する香りと増加する香りがあることを、データで解説いただきました。バナナ(イソアミルアセテート)や発酵バター(アセイトン)、バラ、フローラル(フェネチルアルコール)は加熱で減少してしまうのですね。

つまり発酵食品の香りとは、原料の持つ香り、発酵過程で生成する香り、熟成・加熱工程で生成する香り、この3つが合わさったとても複雑なものなのです。だから材料の選別、発酵や火入れをコントロールすれば、同じ発酵食品でも味や香りに違いが出せる、可能性もありってことなのですね!

ワインの香りを表現する訓練に。試香キット‘ワイナロマ’は花、果実、木、スパイス、ハーブなど54種類の液状香料が小瓶に詰められている。


さあ、頭を使った後は五感を起動させましょう。デザートコースのスタートです。


一皿目は
 ‘甘酒のように’
  トンカ豆のクリーム、いちご、スフレ、米のソース、酒のソルベ


「お花見をイメージしました。どうぞ真ん中から召し上がってみてください。」と仲村シェフ。
ガラスの器の真ん中が窪んだところには、バナナとりんごの酵素を米麹と合わせ甘酒のように仕立てたもの。左側には、ギリシャヨーグルトのスフレ、お米、玄米のソースが下敷きになっていて、スフレの乳酸と交わるとふわっと甘い香り。トンカ豆やいちごが桜の花を思わせ、右の日本酒ソルベと交互に頂くと、花の下でお酒を飲んでいるような錯覚が! 甘酒は使っていないのにマジックです。

一皿目 ‘甘酒のように’ トンカ豆のクリーム、いちご、スフレ、米のソース、酒のソルベ。 中央にはナスタチウムの葉が浮かぶ甘酒池か…。

うっとり、かつ真剣に食します。

二皿目は
 ‘パンのように’
  ピスタチオのマドレーヌ、マスカルポーネのクリーム


個人的にはどツボだったこのマドレーヌ。二つに割った瞬間、ピスタチオの香ばしさとともにパンの酵母の香りがぷんぷん漂います。えっ、どうして? それは油脂に秘密がありました。バターの代わりに使った太白ごま油、このニュートラルな液体油にブリオッシュの生生地をいれ24時間置くと、生地からパン酵母の香りが油に吸収されます。この香りのついた太白ごま油でマドレーヌをミキュイに焼くと、焼き上がりからパン酵母の香りがあがってくるというわけ。
レモン風味のマスカルポーネのクリームは、バナナと一緒に口にすると、ゴルゴンゾーラ(ブルーチーズ)っぽい刺激を感じるから不思議。別のチーズに化けました。

二皿目‘パンのように’  ピスタチオのマドレーヌ、マスカルポーネのクリーム

マドレーヌの断面。液体油脂を使っているのでふんわり食感。


三皿目は
 ‘味噌のように’
  ゴマ、ミルクジェラート、パイ、ピーナッツのプラリネ


ミルクのジェラートの下には柚子のジャム、四角いパイには、ピーナッツ、アーモンド、ゴマのペーストのプラリネが挟んであります。炒りたてのゴマをトッピングにした一皿は、味噌を使っていないのに懐かしいクルミ味噌の味がします。その秘密を伺いました。あの遠足で仕入れた醤油麹を隠し味に使っていたのです。ひとつの発酵食品を足して別の発酵食品に変身させる。なんてマジカルな!

三皿目は‘味噌のように’ ゴマ、ミルクジェラート、パイ、ピーナッツのプラリネ。
炒りたてのゴマの香りがぷんぷん。キャラメリゼされたサクサクなパイとナッツ、ミルキーなジェラートを一緒に食べるとあら不思議。少し和風な見た目も想像力を掻き立てます。


四皿目は
 ‘ワインのように’
  テリーヌショコラ、ソルベショコラ、ぶどうジュレ、ぶどう


今回のメインディシュがこちら。台湾で栽培・発酵・乾燥させたカカオ豆を日本で焙煎、加工したチョコレートを使い、テリーヌショコラに仕立てたものを中心に、乳を使わず凍らせたソルベショコラ、ヨーグルトのホエー(乳清)を混ぜたぶどうジュレ、スパイスを含ませたオレンジクリーム、ぶどう、砕いたサブレ、エディブルフラワー、濃縮ワインソースをサイドにひと筋という構成。
テリーヌをひと口いれたとたん、鮮烈なレーズンフレーバーと酸味、渋みに束縛される感覚に。参加のみなさんからも驚きの声が響きました。一体これは…?
実はこの台湾カカオ、ワイン用の酵母で発酵させたカカオ豆なのです。最近はカカオ豆の発酵も、バナナの葉以外を使って、今までと異なるアロマが生成されないか、各方面で実験がされていますよね。台湾という新たな産地、新たな発酵方法で新たな香りを持つカカオが、今後のチョコレートをさらに面白くする可能性を感じていただけたのではないでしょうか?
香りのテーマとしては、ワインの中にあるレーズンフレーバー、乳酸発酵によるヨーグルトのような香り、熟成によるスパイスやウッディなニュアンスなど、視覚と嗅覚、舌に感じる五味、それに情報を総動員して、しっかり堪能いたしました。

四皿目‘ワインのように’ テリーヌショコラ、ソルベショコラ、ぶどうジュレ、ぶどう

24人分をリズムよくお皿に仕上げていく仲村シェフたち。


最後に プティフール2種 (みりんのモンブラン、ボンボンショコラ)

みりんで甘みと風味をつけた小さなモンブラン。食べてみると何やらザクザク音がします。音の仕掛けはコーングリッツ。それがモンブランの風味をポップに引き立てます。定番となったカシスの酸味との対比とは違った立体感と鼻に抜ける穀物の熟成香が愉快。これはハマりそうです。
ボンボンショコラは、あのメインのチョコレートの後にも負けない一粒。バラ、スミレ、乳酸、スパイスなど香りの宝石箱を開けたような複雑さと余韻の長さ。どちらももう一度食べたいと思わせる小菓子。最後の最後まで抜かりがありません。

プティフール2種。左からみりんのモンブラン、ボンボンショコラ。

デザートの解説、質問に答える佐藤料理長と仲村シェフ。



今回も驚きと興奮で包まれた香りの会。そのものを使わずにテーマの発酵食品をデザートで再現するという試みは大成功。

「パティシエの中ではありえなかった領域なので、とてもやりがいがありました。」

ミッションを達成されたお二人からは、こんな風にコメントをいただき、私も心の中でガッツポーズ。

ペストリー・ベーカー料理長・佐藤浩一氏


仲村和浩シェフ


佐藤料理長、仲村シェフ、コーケンフード&フレーバー株式会社さん、お手伝いいただいた「ハイアット リージェンシー 東京」のスタッフの皆さん、どうもありがとうございました。遠足でたくさんの刺激とヒントをくださった奥野田葡萄酒醸造さん、養老酒造さん、五味醤油さん、ヴァルトさんにも御礼申し上げます。

そしてご参加いただいた皆さん、たくさんの感想をいただき、盛り上げてくださり感謝です。今後も香りにスポットをあてて、スイーツの新たな可能性、コミュニケーションを広げていけたらと思います。

次回開催は、晩秋の頃を予定しております。また香りの会でみなさんとお会いできることを楽しみにしています!

さて、次のお題は・・・。


ハイアット リージェンシー 東京 公式サイト
  http://www.tokyo.regency.hyatt.jp
コーケンフード&フレーバー株式会社
   http://kohken-flavor.com/
奥野田葡萄酒醸造
  http://okunota.com/
酒蔵ごはん&カフェ 酒蔵櫂(養老酒造)
  http://sakagurakai.com/
五味醤油
  http://yamagomiso.com/
ヴァルト
  http://www.d-wald.com/




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